アンサンブル・フリーEAST第20回演奏会で初演する委嘱作品「踊れるものなら」の作曲家である大熊夏織さんにインタビューをしました。インタビュアーは、世界の音楽に詳しい野本裕輝(当団Cl奏者)と広報担当の渋谷康夏(当団Ob奏者)です。
作曲家への道
- 野本
- 今日はどうぞよろしくお願いします。さっそくですが、作曲をはじめたのはいつ頃ですか?
- 大熊
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こちらこそよろしくお願いします。子供の頃にヤマハ音楽教室に通っていたのですが、そこで自分で作った曲をピアノで弾くというプログラムがあり、それが初めての作曲でした。そのまま作曲を続けていて、中学3年生の頃に、もしこのまま作曲を続けていきたいのなら、音大を受験するにあたって先生を紹介していただけるという機会があり、音大に進むか普通の大学に進むかという決断に迫られました。
- 野本
- その中学3年生の時に、作曲に進むと決断されたと。
- 大熊
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はい。ただ当時の先生が、なるべく普通の高校にしなさい、という考えの方でした。その方が自分の世界が広がるし、周りの友達からも刺激を受けると思うので、ということで。そこで音楽科のある高校ではなく普通の高校に通いながら、先生の下で和声と対位法を3年間学びました。その頃の作曲は受験対策のためで、自分で自由に作曲をすることはありませんでしたね。
- 渋谷
- その頃から現代音楽を聴いていたのでしょうか?
- 大熊
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現代音楽を知ったのは大学に入ってからです。なんとなく大学に入ったら現代音楽の勉強ができるのかなって思っていました。大学の先生について、先生の曲を聴いて、現代曲ってこういうものなんだって初めて知りました。
- 渋谷
- そうだったんですね!小さい頃から現代音楽を聴かれていたのかと思っていました。
- 大熊
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そんなことはないですよ、高校時代は椎名林檎をよく聴いていましたし。ただ大学で現代音楽を作り続けて、卒業してからある時、「大学を卒業してからも、私がずっとこれを作り続ける意味はあるのかな?」とふと思ってしまったんです。このまま一生続けるのはしんどいな、と。その頃は私生活でもいろいろあって、一時的に作曲をやめてしまったんです。
- 野本
- 一度作曲を離れてから、また戻るきっかけは何かありましたか?
- 大熊
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その頃は色々悩んだのですが、最終的には「でもやっぱり曲が作りたい」という気持ちが自分にあることに気が付きました。気付かせてくれたのは占い師の人なんですけど(笑) 「あなたはやめても結局は曲を作るよ」と言われて、そうだなと思って。客観的に誰かに言ってもらいたかったのだろうな、と思います。