《ダンシング・クィア》の作曲者である向井航さんにインタビューをしました。インタビュアーは、浅野亮介(当団指揮者)、高橋奏子(当団Vn奏者・コンミス)、塩澤糸(当団Vn奏者・スピーカー)です。
作曲家 向井航について
- 浅野
- まず、作曲家を目指したきっかけを教えてください。
- 向井
- 3歳ぐらいからピアノを習い始めたんですけど、その頃から五線譜のノートに色々なメロディーを作って書きなぐっていました。それが最初のきっかけです。
- 浅野
- 3歳!早いなあ。
- 向井
-
親は音楽関係の仕事をしていませんでしたが、「うちの子、音楽をやらせてみたらすごいんじゃないか」となったみたいです(笑)
それで、音楽を真剣に始めました。さらに、8歳ぐらいからヤマハ音楽院で作曲を習い始めて、先生が作曲の面白さを教えてくださったことによって、どんどんのめり込んでいった感じです。小さい頃から作曲というものが自分の中にあったので、自然に作曲家になろうとずっと思っていました。
- 浅野
- なるほど。
- 向井
-
あと、僕の一卵性双生児の兄も作曲家で仲が良いんですけど、二人でずっと作曲の話をしていたんです。二人だけの秘密というか…共有できるものがあるのはすごく楽しいことでした。
- 浅野
- お兄さんと作風は違うんですか?
- 向井
- 全く違います。兄のほうは、AIを使って映像を作ったり、主にテクノロジーを使う感じですね。僕は比較的アナログなほうだと思います。
- 浅野
- 作曲家以外の道に進もうと思ったことはないんですか?
- 向井
-
はい、音楽関係の仕事には絶対就きたいと思っていました。自分のことを表現できるし、音楽という媒体を通さないと社会と繋がれないような気がしていたので…基本は作曲を通した仕事をしたいなという気持ちをずっと持っていました。
- 浅野
- 作曲家の醍醐味はなんですか?
- 向井
-
元々、あまり人前に出たいタイプではないですけど、作品を通して自分を表現するのはすごく好きなんです。作品の中で「今この時間、全員の注目が自分に向いている!」という瞬間に、何とも言えないエクスタシーみたいなものを感じています。
- 浅野
-
自分の作ったものや存在を多くの人に認めてもらいたいというのは、演奏家でもありますよね。今、インターネットでよくある「承認欲求」などはあまりいい言葉じゃなくなっていますけど…やっぱり誰しも、シャイな人であればあるほど、自分の存在がここにあるということを誰かに認めてもらいたいと思うんです。
- 向井
- そうですね。多くの人と時間を共有できるし、集まっている視線の先が自分の作品というのがめちゃめちゃ面白いなと思います。
- 浅野
- そういう演奏をしないといけないですね(笑)塩澤さんのスピーカーや高橋さんのコンミスのリードでみんなの注目を集めましょう!
- 向井
- よろしくおねがいします(笑)
- 浅野
- 現在はベルンに留学中とのことですが、それが最初の留学ですか?
- 向井
-
いえ、最初はドイツのマンハイムというところに留学しました。そこで色々な音楽祭やコンクールに参加して充実した時間を過ごしていたんですけど、4~5年でちょっと飽きてしまって…
- 浅野
- なるほど。
- 向井
-
さらに、コロナの影響で自分がもらっていた委嘱も全部延期になったときに、自分の活動を見直すいい機会だと思いました。
やっぱり作曲しても演奏されずに終わっちゃうのは悲しいことですし、「このままだとドイツで勉強していた一人のアジア人で終わってしまう」という危機感もあったので、博士課程に行こうと決意しました。
その中で、人生を賭けて取り組もうと思ったものが二つあります。一つはLGBTIQ+をテーマにした作品作りで、もう一つはドキュメンタリー・シアターという、実際に起こった出来事をリサーチして演劇にするというものです。
自分の作品で使ってきたクィア学やジェンダー学などを交えて、ドキュメンタリー・ミュージックシアターを作るのが次の目標になっています。
- 浅野
- 留学するというと、フランスが多いイメージです。ドイツやスイス方面はどちらかというと少数派じゃないですか?
- 向井
-
いえ、最近はドイツもかなり増えてきています。今までは、日本の藝大や音大の教育がフランス寄りなのもあってフランスに行く人が多かったですけど、今は多様性の時代なので、自分の興味によって留学先を変えるというのは結構ありますね。
- 浅野
- 向井さんは師事したい先生についていったという感じですか?
- 向井
-
そうです。僕が日本で師事していた近藤譲先生は「作曲は学ぶものではない。とにかく海外の空気を吸ってくることが大事。」「とにかく自由に書かせてもらえて、自分の色に染めない先生に師事したほうがよい。」と仰っていたので、知り合いの先生を紹介していただいて、マンハイム音大を受験しました。
- 浅野
- 今までで一番嬉しかったことと一番悲しかったことを教えてください。
- 向井
-
選ぶのが難しいですけど…嬉しかったのは、2017年の芥川作曲賞に自分の作品がノミネートされたことですかね。芥川作曲賞選考会には毎年通っていて、「いつか自分の作品をサントリーホールで演奏してもらうぞ」と思っていました。作曲は大変なことも多いし、特に自分の場合だと365日中360日ぐらいは悩んで病むことが多いので(笑)目標にしていた演奏会やコンクールなどに一つ選ばれたときは、本当に嬉しかったですね。
- 浅野
- 実際にサントリーホールで演奏されたんですか?
- 向井
-
そうです。これは悲しかったことでもあるんですけど、受賞はできませんでした。ノミネートされた作品は、僕が東京藝大の学部を首席で卒業し、マンハイム音大の受験時に最高点を付けられたものです。
しかも、芥川作曲賞の史上最年少記録と同じ23歳でノミネートされたので、「史上最年少タイで賞を取って、自分が日本の現代音楽界を変える!」と本気で思っていました。
当時、だいぶ天狗になっていたのか、作曲家として怖いものが全くなかったので、「絶対これ、自分が受賞するわ」と思って、髪の毛を整えて壇上に上がる準備をしていました(笑)
- 一同
- (笑)
- 向井
-
そのときに自信が全部崩れてすごく辛かったです。でも、自分の思い上がった部分
を一回見直せるいい機会になりました。もっと自分のオリジナリティーを極めて、常識にとらわれない音楽を創らないとダメだと思って、音楽がガラッと変わりましたね。そこからまたスランプが長かったですけど、なんとか克服して今があるという感じです。
- 浅野
- なるほど。
- 向井
- あ、本当に一番悲しかったのは、大好きな姉と同じ高校に入れなかったことですけど、ちょっとインパクトが足りないので割愛します(笑)
- 浅野
- わかりました(笑)
- 塩澤
- スランプを抜けだしたのは、何かきっかけがあったんですか?
- 向井
-
博士課程の研究計画書を作る時期に、これまで興味があったけどできなかったドラァグクイーンをやってみたら、自分の中でくすぶっていたこととか全部どうでもよくなるほど強烈な体験をしました。
そのあと、ドラァグクイーンを使った作品をスイスのバーゼルで初演したときに、作品作りも楽しく、評価もすごくよかったので、「あ、これだ。」と思いました。それをきっかけにスランプを抜け出しました。
- 塩澤
- それは今回の作品にも繋がってきていますか?
- 向井
-
そうです。LGBTIQ+やクィアについての論文などをずっとインプットしていたので、自分の創作活動に一番深く結びついていると思います。ちなみに、最初はドラァグクイーンを呼んで、塩澤さんの声をリップシンクさせることも考えていました。