《Exophonie Ⅱ》の作曲者である稲森安太己さんにインタビューをしました。インタビュアーは、池端研人 (当団Tp奏者・事務局長補佐)、能勢飛鳥 (当団perc)、石井宏宗 (当団Tb) です。
作曲をはじめたきっかけ
- 池端
- よろしくお願いいたします。
- 稲森
- よろしくお願いします。
- 池端
- まず、最初にご個人のお話なんですけれども、作曲家を目指したのはいつ頃なのか、またそのきっかけをお教えいただけますか?
- 稲森
-
きっかけは14歳の12月頃ですかね。当時ピアノを習っていたんですが、ドビュッシーのアラベスクがすごく綺麗で気に入って、自分もこういう曲を書きたいと思ったんです。それで実際に曲を書いてピアノの先生に見ていただいたんですね。一種のスタイルコピーみたいな曲でした。そうしたら書くのが楽しくなって、毎週のように新しいピアノ小品を先生に見せるようになりました。
自分はピアノがまだそんなに上手じゃなかったからパッと自分の曲も弾けないけれど、先生はすぐに弾いてくれるから、なんかそれがまた楽しくなっちゃってどんどん書いていったら、ピアノの練習もあんまりしなくなりました。
そこで、「ピアノも見てくれるけど作曲も見てくれる先生についたら?」とご提案いただき、ピアノも教えている藝大の作曲科を卒業された先生をご紹介いただきました。
そういう意味では、中学3年の頃から和声とかを勉強し始めた時には作曲家になるイメージが沸いていましたね。
- 池端
- ドビュッシーに影響を受けて、じゃあ書いてみようというモチベーションでなかなか私の感覚だとその発想に至る人は少ないのでは?と思うのですが...
- 稲森
- あまりそういう人はいないらしいですね (笑)
- 池端
- それは感性があったんじゃないですか?その時点である程度曲を作れるというのは...
- 稲森
- いやだいぶ変な曲ですよ (笑) 劣化版ドビュッシーというのもおこがましいぐらい。
- 池端
- でもそれを弾いてくれる先生がいた点は結構貴重ですよね。
- 稲森
-
どうなんですかね。僕も今大学で作曲を教えてますけど、初めて書くときってやっぱり普段読んでる (楽譜の様式)
を理解して書いたつもりでも、割と書き方が間違ってるところとかあるけど、だからといって別に弾けますよ。間違って書かれてるのはこれを書きたかったんだろうなと思って。
- 池端
- 自分の書いたものが形になるっていう経験は代えがたいですね。
- 稲森
- そうですね、パッと何となくでも弾いてくれる先生がいたから楽しかったってのもあるかもしれないですね。
- 池端
- ピアノ自体はいつ頃から?
- 稲森
- ピアノは多分5歳ぐらいです。幼少期、なんかとりあえずいろいろさせてみる家庭でしたね。
- 池端
- ピアノ以外に習っていたこととかあるんですか?
- 稲森
- 書道と絵画もちょっとやってて...格闘技も一瞬習った気がします。あとは水泳もやった気がする。でも全部続かないんですよ (笑) 英会話もやりました。
- 池端
- その後にピアノだったということですか?
- 稲森
-
ピアノも続かなかったです。嫌いで嫌いでしょうがなくて...ただ転換点としては、小学6年の時にちょっと大きめの病気をしたんです。それで入退院を繰り返す生活になったから、「やった!辞められる」って感じでピアノを辞めたんですよ。だけど中学2年の時に妹が近所のお姉さんと仲良くなって、その人が音大卒でピアノを教えてくれると聞き、私も久しぶりに弾こうかなと思ったわけです。家に来てくれる方式だったので僕もできるかなと思って、再び中学2年の時に始めたって感じですね。
- 池端
- そこからドビュッシーに出会って、音楽の方向に行ったという感じですね?
- 稲森
- そうです。ドビュッシーが本当に面白かったです。
- 池端
- そこからキャリアを進める中でこの出会いは大きかった、みたいな作曲家はいますか?
- 稲森
-
シューベルトも大きな影響を受けてますね。特に最近じゃないかな。大人になってからずっと聴いてたい作曲家っていう感じもありましたね。あとは現代音楽、新しい音楽の表現を追求することって面白いなっていうふうに思うきっかけになったのが、18歳の時に初めてシャリーノと出会ってからかな。現代的な表現というのを追求するのも面白い、聴いたことのない音楽を聴くっていうのは楽しいなという発見ですね。あとは松任谷由実さんの和声感覚とかメロディーセンスは好きで、小6からポップスで言うと一番好きな歌手ですね。だから結構時間感覚というか和声の移り変わりの感覚とか、僕はユーミンの影響が強いと思っていますね。でも今回の曲では原型があるからあんまり関係ないかもしれない。
自分で定めた時間の流れが結構少ないので。