第 1 楽章 Allegro maestoso(速く、堂々と) 約 11 分
第 2 楽章 Poco adagio (やや緩やかに)約 10 分
第 3 楽章 Scherzo, Vivace (スケルツォ、活き活きと)約 7 分
第 4 楽章 Finale, Allegro (フィナーレ、速く) 約 9 分
1884 ~ 1885 年にかけて作曲されたドヴォルザークが 43 歳の頃の作品。
シューベルトやメンデルスゾーンらと同様に、ドヴォルザークについても交響曲に付せられた番号には歴史的な変遷がある。
現在では交響曲第 6 番とされるニ長調の交響曲が最初に出版され、当時は「交響曲第 1 番」とされた関係で、続くこのニ短調の交響曲は当初「交響曲第 2 番」と呼ばれていた。
ドヴォルザークの交響曲の中で現在でも傑作とされ演奏頻度が高いのは第 6
番以降であることが示すように、第1番から第5番(特に作曲家の生前には出版されなかった第1番から第4番)は、後年ほどの独自色と構築美を持つには至っていない。
傑出した交響曲が 4 つしかないというのは、同じロマン派の作曲家であるブラームスやシューマンとも共通している。
ベートーヴェン以降、交響曲のジャンルで抜きんでた作品を発表することは、当時の作曲家たちにとっては、それほど難しいことだったのである。
リストやワーグナーなどドヴォルザークに影響を与えた作曲家は多いが、中でも大きな影響を与えたのはブラームスであろう。
そもそもドヴォルザークの才能を認め、広くヨーロッパ諸国に知らしめたのはブラームスであった。
ブラームスはオーストリアの国家奨学金の審査員を務めていたことからドヴォルザークの作品を知るに至り、その才能を認め出版社に紹介した。
ドヴォルザークもブラームスを敬愛し、感謝の気持ちを込めて献呈した弦楽四重奏曲第 9 番をはじめ、ブラームスの手法を取り入れつつ多くの作品を生み出した。
交響曲の分野でも、その痕跡を見ることができる。
ブラームスの交響曲第 2 番とその 3 年後に作曲されたドヴォルザークの交響曲第 6 番は同じニ長調という調性を持ち、特に第 4 楽章はどちらも「Allegro con
spirito」(活き活きと速く)という曲想を与えられ、構成の上でも類似点を多く指摘することができる。
これに続くブラームスの交響曲第 3 番とドヴォルザークの交響曲第 7 番の関係は更に深い。
1883 年、ドヴォルザークがこの交響曲第 7 番に着手する直前にブラームスは作曲中の交響曲第 3 番の一部をドヴォルザークにピアノで弾いて聴かせた。
翌年、初演に立ち会うためベルリンまで赴いたドヴォルザークは、完成されたブラームスの交響曲第 3 番に強烈な印象を受けた。
これはドヴォルザークが出版社に「ブラームスの第 2 番に対して第 3
番が全く新しいものであったのと同様に、私の新作であるニ短調交響曲も前作のニ長調交響曲とは全く違うものにしようと取り組んでいる」という内容の書かれた手紙を送っていることからも窺い知ることができる。
しかし、いくら多大な影響を受けようとも、両者の間には大きな違いがある。
劇場のコントラバス奏者であった父親から最初に音楽の手ほどきを受けたブラームスは、後に作曲家でありピアニストでもあるエドゥアルト・マルクスゼンから高度な教育を受け音楽家としてのキャリアを積んでいった一方、ドヴォルザークは
15 歳まで家業である肉屋を継ぐために修行し、正規の音楽教育は受けておらず、村の楽団やオルガン学校の音楽クラブに参加するなどして音楽に親しんだ。
こうした幼少期からの音楽経験の違いは、二人の音楽性を大きく分けることになった。
例えば有名なブラームスの《ハンガリー舞曲》はジプシー音楽を題材に編曲されたものであるのに対し、ブラームスから同様の民族音楽的作品を作るように勧められて作曲したドヴォルザークの《スラブ舞曲》は、民族的な要素を取り入れつつも、その旋律は全て作曲家の自作である。前者は高い作曲技術によって民族的な素材を芸術作品の域にまで高めたのに対し、後者は高い作曲技術によって新しい民族音楽を生み出してしまったのである。
ブラームスの力を「芸術的」と呼ぶならば、ドヴォルザークの力は「芸能的」と言えるかもしれない。
ブラームスは芸術的な理想を追求する作曲家であるのに対し、ドヴォルザークはあくまで民衆に寄り添う作曲家なのである。
こうした特徴は、当然、交響曲第 7 番にも現れている。
ここに用いられた土俗的なまでに力強いリズムや、歌謡曲のように口ずさみたくなる数々の旋律は、この交響曲が芸術作品というよりも、新しく生み出された巨大な民族音楽であることを示している。
クラシック音楽は観念的な理想と人間的な感情の相剋を原動力として発展してきたが、現代に至る過程で、一方は一筋縄では理解できない現代音楽としてアカデミックな側へ、他方は分かりやすいポピュラー音楽として市場の側へと分割されてしまった。
この作品は、それらがまだ一つの音楽として分かちがたく結びついていた古き良き時代の記録の一つである。