「ヒンデミットは私の腕を掴むなり、聖堂へ急いだ。(聖堂に入って、)私はこの建物が持つ法悦の美に心を打たれた。ヒンデミットが深く感動を覚えた訳もよく分かった。しかし、その後すぐに、彼は聖フランシスコの生涯を主題としたバレエ作品の共作を行うべきだと提案してきて、私はその提案を受けることを躊躇った」
1934年に起きたナチスドイツによるヒンデミット排斥運動後、ヒンデミットは故国を離れ、亡命先を求めるようになった。彼はスイスへ移り、最後はアメリカに拠点を置いたが、その間にイタリア・フィレンツェにある聖フランシスコゆかりの聖堂、サンタ・クローチェ聖堂へ足を延ばし、ストラヴィンスキー作『プルチネルラ』やファリャ作『三角帽子』の初演時にバレエ振付を担当したロシア人振付師、レオニード・マシーンと出会う。
聖堂に強い霊感を得たヒンデミットはマシーンに出会うなり、彼を説得してバレエ作品に取り組むことになるのだが、この時のことをマシーンは上記のように述懐している。そしてその後、彼らは南イタリアのポジターノで再会すると、作品のタイトルをついに決定するのであった。
『至高の幻想(Nobilissima Visone)』――。
やがて組曲として再編されるこの曲は、ヒンデミットの当初構想通り、聖フランシスコ、またはアッシジのフランチェスコの生涯を描いたものとして演奏される。
アッシジのフランチェスコは、1181年または1182年に、イタリア中部アッシジの豊かな織物商の息子として生を受けた。若い頃は豪奢な身なりをし、宴会や遊興に金銭を惜しまない人物であったとされている。彼はやがて騎士を志し、戦争へと出立するためにアッシジ近郊に出たのだったが、すぐに思い直して故郷に戻る。神のお告げを幻視、または幻聴したのである。
アッシジに戻った聖フランシスコは俗世を捨て、キリストの弟子として振舞うようになる。ついには、彼は大通りで裸になり、衣類と金とを父親に差し出し、私の父は天の父(=神)だけである、と言って親子の縁を切ったのであった。
「胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい」(マタイの福音書, 10章9-10節)
聖フランシスコは、聖書の中でキリストが説く清貧を教義とし、粗末な衣服に着替え、無一文で巡教を行うようになる。やがて彼に賛同する仲間たちが増えてゆき、「フランシスコ会」と呼ばれる修道会が発足した。
「彼らは小さき兄弟および姉妹と呼ばれ、教皇や枢機卿たちからも一目置かれています。....(中略)....夜は隠棲所かほかの人里離れた場所に行って、瞑想にふけります。一方女性たちは、都市の近くにあるいくつかの住居で一緒に暮らし、一切の寄進を拒絶して手仕事で生計をたてています」
フランシスコ会には女性もいたのだが、キアラと呼ばれる女性がリーダー格として彼女たちを導いていた。キアラは貴族の娘であったが、18歳で聖フランシスコの説教に感化され、修道女として活動を行うようになったのであった。またこのほかにも、在世フランシスコ会と呼ばれる、俗世に生きながら聖フランシスコの理念を追究しようとする会も発足する。
やがて3,000人を超える大組織となったフランシスコ会はカトリック教会における一大派閥となるが、同時に聖フランシスコの管理能力を超える集団となったこの修道会は、やがて派閥間での軋轢に悩まされることとなる。
だが聖フランシスコは、混乱した修道会の運営を別のものに任せると、隠棲して説教活動を行うようになる。その後徐々に彼の身体は弱り始め、やがて息を引き取る。1226年のことである。
裕福な商人の子息として生まれ、聖なる貧者として生涯を終えたアッシジのフランチェスコは、中世から現代に至るまで、後世の芸術家たちに霊感を与えた。ヒンデミットが訪れたサンタ・クローチェ聖堂は、そのような芸術家が創作した諸作品が多数収容されている。そしてヒンデミットも彼らと同様に、マシーンとの共作の中で聖フランシスコの生涯を描くのであった。
曲構成
元々バレエ作品として作曲された『至高の幻想』だが、ヒンデミット自身の手により組曲として再編されている。今回演奏するのは組曲版である。
<1曲目:導入部とロンド>
弦楽器とクラリネットによる厳粛なフォルテから、聖フランシスコの瞑想を表す導入部。ヴァイオリンによるメロディが幾度か起伏を見せると、その後弦楽器によりロンドが開始される。このロンドは、聖人とキアラとの精神的な繋がりを表している。
<2曲目:マーチとパストラーレ>
木管楽器による可愛らしい旋律により曲が始まる。この木管楽器は、中世の軍隊が行進して近づいてくる様子を表現している。テュッティによる強奏の後、3拍子の中間部。ここでは、兵士が旅をする町人を襲い強盗する様子が描かれている。中間部が終わると、当初出てきた旋律が再現され、遠くへ消えていったのちにパストラーレが演奏される。ここでは、聖フランシスコが「服従」「貞操」「貧困」を表す3つの夢を見たことが描かれる。
<3曲目:パッサカリア>
金管のユニゾンにより、厳格な主題が提示される。6小節間に渡り演奏されるこのパッサカリアでは、提示された主題を下敷きとして、複数の旋律が展開されてゆく。「天と地の存在を象徴するすべての擬人化が、パッサカリアの6小節間のテーマを変化させる様々なバリエーションの中で混ざり合っている」と、ヒンデミットが自らこの曲を解説している。